逃がされた魚

大きくなりたい。

生きる意味ってなんなのさ

 最近記事のテーマに事欠いてブログを書きあぐねていたのですが、いいのを思いつきました。

 「生きる意味」です。

 自慢にもなりませんし、もっと精通する人は他にたくさんいると思いますが、私はこれまである程度「生きる意味」について考えてきました。それなりの私見も持っています。

 なぜ20やそこらの若造が「生きる意味」マスターを名乗っているか(名乗っていません)。それははっきり言って、少なくとも自分には、生きる意味がないと考えてきたからです。感覚的に「知っていた」からではなく、「考える」ようになったことが重要なのだと勝手に思っています。

 

 人間は何についても意味を考えがちです。大学行って何の意味があんの?微積ができて何の意味があんの?嫌いな人と付き合って何の意味があんの?……

 この場合の「意味」とは、それの生む利益や目的、理由を指しているのでしょう。上記のようなほぼ反語的質問に敢えて答えるなら、大学に行くと就職の役に立つ、微積を勉強するのは経済学を深く理解するため、嫌いな人だからって絶交すると後で大変なことになるから……のような回答例が考えられます。

 さて。では、「あなたが生きてることに何の意味があんの?」という質問に、あなたは何て答えるでしょうか。10,9,8,7,2,1,ででん!タイムアップ!答えは出そろいましたか?この答えについては非常に興味があるので、みなさんの考えをぜひ教えてください。

 

 私が「生きる意味」を頻繁に考えるようになったのは、恐らく初めてはっきり「死にたい」と思った時でしょう。去年のことです。去年の五月以降のことです。

 私がこのブログでぼろぼろと綴ってきた通りです。私の場合は、ある特定の他人に依存し、自主的に生きることを放棄し、その他人がいなくなってみると自分の状況の虚しさ、理想との乖離、修正の不可能さに気づき、どうにも生きることが苦痛で仕方なくなってしまったのです。

 

 今、あの時苦しみもがいていた彼女を別の視点から見下ろしてみるなら、彼女は「意味」のある人生を生きているつもりだったのに、その意味を「失って」しまったことに気づいたのです。この場合の「意味」は利益でもあれば使命のようなものでもあるでしょうか。まだ見もしない私の未来は、最終的に「このために私は生まれてきたのだ」と思えるような何かに繋がっていると、それまで思ってきていたのです。

 彼と出会い付き合うまで、私にとってその使命は未知で、例えば「どこかの発展途上国へ行って貧しい子供たちに教育を授ける」とか、「何かしらの偉い人になって困ってる人を助けたり多くの人を幸せにする」とか、「文学か美術か何かの分野で何かを生み出し、人々に感動を与える」とか、立派で誇らしい何かへ向かって自分が歩んでいるのだと信じていたのです。

 彼と付き合い始めて、彼の要求を聞くうち、私の「生きる意味」は違う形に定まってきました。彼による制約の中で生きることを前提に、「結婚して子供を育て彼と子供を幸せにする」「彼らといることによる幸せを享受する」「その合間にできる仕事などで成功し家計の足しにしながら自分の名誉もなんとか保つ」ことを人生の目標としたのです。今、自分にこれでいいんだ、いいんだと言い聞かせていた時期を思い出し、苦しくて悔しくて涙が出てきます。でもそれでも、彼と一緒に幸せになることが何よりも私の「生きる意味」として、私が息をしていることの意味を問わせずに済ませていました。

 さて、ある日彼に振られました。私が彼のために妥協した学歴や縁を切った友達は戻ってきません。彼と付き合う以前に持っていた「生きる意味」も、付き合っている間もっていたそれも、何にもなくなってしまいました。ああ、もうやり直せない。本当なら果たせたはずの私の夢や役割に、もうどうにも手が届かない。そもそももう夢とかない。愛とか恋とか、そんなものももう生きる意味にはできそうにない。だめだ。生きる意味ない。死んだ方がいい。

 そんな風に考えては、歩道橋から身を乗り出してみたり、富士の樹海への生き方を検索してみたり、実行に移したこともありました。ホント情けないんですがね。

 

 しかし、本当に「生きる意味」なんてあるんですかね。概念として。人は本当にそんなものに根拠づけられている「から」生きているのでしょうか。

 私が持っていると思っていたような使命、人の役に立ったり社会に貢献したり他者から認められたり、そういう大いなる目的を持って全ての人間が生きているのだと仮定してみましょう。それでは、例えば生まれてから何かしらの障害を持って寝たきりだったり、本人が生きるので精一杯という人には「生きる意味」がないということになるのでしょうか。彼らには彼らの「生きる意味」を見つけ出してあげないと、彼らの生を肯定することはできないのでしょうか。

 あるいは、どんな人も死んだら悲しむ人がいるから死んではいけない、生きるべきである、という仮定法のような消去法のような、中途半端な論理が答えなのでしょうか。他者を悲しませないことが「生きる意味」なのでしょうか。

 

 私は、自分が死にたいと思った時、何度も家族の悲しむ姿を想像してやめました。自分自身彼らにもう会えないことが悲しくてやめました。一度実行に移したときは、それでも家族を悲しませる辛さより、自分が生きていることの辛さの方が大きいと判断したから、死のうとしました。家族が「死んだらだめだ、親不孝だ、私たちが一生苦しむ」と言っているから、ではありません。「私が」悲しいからです。

 畢竟人は自分の為にしか生きていません。人を助けること、社会に貢献すること、他者に認められることが自分にとって嬉しいから、それが自分の使命だと誇りに思えるから、それをしつつ生きているにすぎません。そんな大それた使命などでなくとも、庭を花で一杯にして綺麗にする、とか、大好きな友達に会う、とか、読書を楽しむ、とか、そういう小さいものから大きいものまである喜びから喜びへと飛び移りながら、なんとか「無意味」の川を渡ろうとしているのが人間ではないかと思うんです。

 何で「無意味」なのかといえば、人間の生も、葉に露がつくとかボールが下に落ちるとか音が鳴るとか、そういう「ただの」「意味のない」現象に過ぎないからです。この世に意味のあることなどありません。ただ色々な事柄が作用し合って偶然、何の目的もなく、ただ少し他の物事に作用したりしなかったりしながら、起こっているだけなのです。宇宙の誕生かもっと前から始まる無数の現象が他の現象とぶつかり合いながら、地球という星が偶然生まれ、何かが偶然反応して生命体が生まれ、それらが自然淘汰を経て(偶然生き残り)たまたま人間という一つの種へと進化し、その一つとして偶然生まれた私やあなたが偶然人間の持った知能というもので勝手にそれらの現象や自分の生を意味づけようとしている。ただそれだけなのです。

 かなりメタ的な話ですが、「意味」なんてものは所詮人間が偶然の産物に後付けしていった幻想に過ぎないのです。だから、そもそも私が生きている「意味」なんてない。いや、考えれば生み出せるけど、それは私が決めることで、普遍的な確固たる何かに支えられて生きているわけじゃない。普遍論争で言うなら唯名論なわけです。そんなよく知らんけど。

 強いて言うなら、私が生きている原因は「生まれてきたから」です。私が生まれてきたのは母と父が偶然会社で出会ったからで、母と父が生まれたのはそれぞれの親が出会ったからで……宇宙が生まれたからで、宇宙が生まれたのは……。数列みたいになりましたね。まあだから、問い詰めても詰め切れない。生きているのは、生まれてきて、まだ死んでいないから。それだけ。生きている原因は、生きていること自体と不可分なのだと思います。

 

 話が逸れました。とにかく、生きる意味などありません。他の何にも意味がないのと同様。雲と雲の摩擦で起こった雷に負けず劣らず、ただそれが起こっているだけ。

 ただ人間が雷と違うのは、意思があることです。ただ起こるだけのはずの現象を、自分の意思で少しだけ動かすことができます。朝ご飯を食べて生きながらえることもできれば、ここでピストルを心臓に打ち込み、自分という一生物をただの有機物の塊に変身させることもできます。

 だから、あらゆる意思のもとで、人間は生きています。パスタを食べる意思に基づいて食べ、金を稼ぐ意思に基づいて働き、家庭を持とうという意思のもと結婚し、意思にかかわらず必ず一度死にます。生きるための選択をしなければ、すぐに人は死にます。わざわざ生きるための選択をするには、それなりの「意味」というやつを、生きることに感じていたいのでしょう。

 結局、生きてしたいと思うことがあるから、あるいは生きることの意味を疑わせない何かを持っているから、そういうものを「生きる意味」として作り出しているから、生きている。もともと予定的に決まっている「生きる意味」に沿って生きるんじゃなくて、生きていく道のり途中途中で自分がいいなって思うものを見つけてこなして、その一つが人生の意味、価値になって、それを辿りつつ最終的に死ぬまで生きている。それだけなのでしょう。

 

 そのくらいに考えるようになって、私の場合は少し楽になりました。死ぬ選択肢だって、いつでもある。だって意思次第でほとんどの人はそれをできるから。生きるも死ぬも、他者には決められない、他者の意見を聞くかどうかも含めて自分の問題です。

 生きていて楽しいことから悲しいこと辛いことを引いて、プラスだったら生きていればいい。死んで嬉しいことから悲しいことを引いて、マイナスだったら生きていた方がいい。生きる義務とか責任とか糞食らえだ。私が死ぬことに文句を言う前に、私に生きたいと思わせなかったこの世界を悔やめ。くらいの気持ち。

 いや、私この記事を読んでくれている人にちっとも死んで欲しくないし、とにかく生きていて欲しいんですよ。でも生きるなら、生きなきゃ生きなきゃって義務感じゃなくて、生きたいから生きるって思って生きて欲しいなと思うんです。だから自分の気持ちを尊重して、したいことをして、自分を生きづらくする敵なんて無視して生きて欲しい。人を傷つけることは嫌だけど、あなたがそれを嫌だと思わないなら、私は何か言うこともできない。

 

 私は今のところ積極的にも消極的にも生きていようかなって気持ちが勝っていて、せっかく生きるならもっと楽しくなるようなこと、色々してみようかなって思っていて。その過程でいつか多くの人の役に立つようなことをできたら嬉しいし、社会がいい方向へ動いたら嬉しい。けど、そんなでかいことできなくても、自分が楽しいと思って生きていられればそれでいい。小さな家庭菜園を持って、そこでできた野菜を食べながら幸せだと思えていたら、日本中の人が面白いと思うような小説が書けなくたって、別にいい。

 だからこそ、行き当たりばったりでいい。どうなるかはわからないけど、どうにでもなるから、その場その場で一番幸せになる方法を考えればいい。運に任せてもいいし、自分で運命を変えてみようと行動するのもいい。全部意味がなくて、正解でも外れでもない、ただの出来事だ。

 とにかく偶然生まれてきちゃったんだからこの際、意味なんかに縛られず生きてみたらいんじゃない?