逃がされた魚

大きくなりたい。

あい

2021年 大学入試共通テスト 国語

 

第二問

 次の文章は、夜名七夕多『あい』の一節である。主人公の七夏は、八ヶ月前に別れた元恋人冬紀に対し、嫌悪感を抱いている。ある日、冬紀との共通の友達サチコから、冬紀が大学を辞めようとしていることを聞いた。これを読んで、後の問いに答えよ。

 

 

 雨に濡れた道路は街頭や店の明かりなんかを反射して、晴れた夜の帰り道より明るい。七夏は悴む手で自転車のブレーキを握りしめつつ、前より遠くを見据えていた。

 「馬鹿はやっぱり馬鹿だな」。冷たい風の音を赤い耳に感じながら、凍てつく痛みの中に昨日の会話を思い出す。

 

 最初にそれを聞いた時、自分がしそうな、そしてするべき反応をとった。

 「え、笑うわ。」

 軽く冷たい嘲笑だった。少なくともそう見えたはずだった。流石に自分でも、あまりに非道な気がしたが、ここで引き下がってはいけない気もやはりした。心の底で少し影を見せた何かを、声には出ないよう押さえつけた。

 「はは、大学辞めて、何すんだろうね。意味わからないね。」

 サチコは七夏の反応に安堵しているようでいて、少し意外に思った素振りを見せた。七夏もそうとはいえど驚きはして、心臓が脈打つのを感じた。ただいい気味だと思った。自分はきっと、いい気味だと思っているはずだ、と思った。

 

 冬紀とは中学からの仲だった。もう出会って5年になるだろうか。最後の一年を除けば、ずうっと、くっついて離れなかった気がする。そんな事実に身震いをした。

 「別れよう」

 言ってきたのは冬紀の方で、その時の、世界が真っ白になる感覚を未だに覚えている。つい最近のようで、もうずっと前のことだ。

 別れてから、冬紀の自己中心的さを思い出しては、どんどんと嫌気が差してきた。他人の進学先にも友達づきあいにも、いちいち自分の好きなように干渉できる、その横柄さに、そして自分のしたことなんて無いことにして、平気で相手の気持ちを無下にできる、その無神経さ、自分好きさに、腹の中にふつふつとわく何かを感じる。

 いや、それより、自分か。あの男の傲慢を許してきたのは自分だったか。自分の来たるべき不幸を受け入れたのは、自分だったか。自分は本当の馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。冬紀に対する怒りよりもより黒く、粘着質な憤怒が肺を覆う。子供のように可愛がっているようで、何よりも恐ろしかったのだ。仕方ない。吐きかけた言葉を吸い戻して、無理矢理な深呼吸をした。

 

 付き合っていた年数などあっけないもので、別れてからほとんど連絡すらとっていない。半年も経てば、過去のことなど夢のように感じた。悪い夢だったのだろう。私とあいつがそうだと言えば、いつでもこれは夢に仕舞える。

 今は大学の勉強に部活にアルバイトに、てんてこ舞いの日々だ。かつての淡い、いや、濃い恋心を、思い出すことはほぼない。新しい恋もした。すぐ破れたが、着実に前へ進んでいる。そう言って自分を宥めることは、ここ半年の七夏の癖になっていた。

 

 踏切に止められた。アルバイトの家庭教師をしている家庭からもらった、コンビニのシュークリームを頬張る。冬の冷たい雨は前髪を伝い、睫毛を濡らし、鼻を滑る。

 ある雨の日を思い出す。冬紀の塾へ迎えに行った、二年以上前の日のことだ。その日もやはり冷たい雨で、鞄をがさごそする冬紀に傘を差してやっていた。

 「俺、K大受けようと思う。」

 無機質な声だ。何の意欲も、熱意も感じられない。その告白の内容もやはり意外ではなくて、でもそれを彼の口から聞いたのが何か嬉しくて、七夏はその言葉に満たされていた。

 「そおかぁ、頑張って。応援してる。」

 一番近くで見守った。相談にも自慢にも乗った。だから去年受かったと聞いたとき、きっと誰より、本人よりも喜んでいた。誰よりも、あの男の、多分人生最大の頑張りを知っているから。他人の幸せを喜ぶと言うより、自分の幸せそのものだったのだ。

 その大学を、辞めるらしい。もう他人よりも遠い人のことなど、気にする理由もない。情なんて無駄なもの、もう持ち合わせていない。過去も現在も未来も、永久にさよならだ。

 

 「受かったよ。今までありがとう。これからもよろしくね。」

 馬鹿はやっぱり馬鹿だ。熱を帯びてきた雨粒を振り落とすように首を振った。

 

 

 

問1 七夏のとった反応が、「自分がしそうな、そしてするべき反応」であったのはなぜですか。50字以内で答えなさい。

 

問2 「馬鹿はやっぱり馬鹿だ 」とは、誰のどのような言動・状態に対するどのような気持ちですか。70字以内で答えなさい。

 

問3 あなたが七夏なら、どのように生きたいと思いますか。理由も含め、500字以内で論理的に述べなさい。