逃がされた魚

大きくなりたい。

失恋した女子大生の話

 「―あのね、私ね、昔もらったマグカップすごく気に入っててね、毎日使ってるよ。あと、もらった水筒も使ってるし、手袋も、あなたからもらったもの全部、見るだけで幸せな気分になるの。それでね、えっとね、、、」

 5月19日の日曜日、午後11時頃。私はもう目前まで迫っている”終わり”を遠ざけようと、必死に言葉を探していた。私が言葉を途切らせたら、”終わって”しまう。そう思えば思うほど、焦りで頭は回らなくなり、言葉の代わりに涙ばかりが溢れて零れ落ちた。

 「もう、そろそろ終わらないと。話してたら、どんどん、別れられなくなるから」

 ビデオ越しに、彼も泣いていた。三年間付き合っていて、泣き顔をちゃんと見たのは初めてだった。驚くほど優しい声で諭された私は、とうとうその瞬間が来るのだと、愈々大声で泣き出した。

 「いつもこっちが切ってたから、今日はそっちが切らなきゃだよ。そうじゃないとまた電話、できる気がしちゃうから。」

 返事ができない。私から切られるわけがない。だってそうでしょう。いつもの電話を終わるときも、デートの終わりに改札へ送ってもらったときも、私はいつだって自分から切れなくて、最後まであなたの言葉を待ってて、なかなか離れられなくて、改札を通っても何度も何度も振り返っていたのに。この、人生で一番幸せだった三年間を、自分の手で終わらせるなんて、できっこないじゃないか。

 でも。私が切らなかったら、彼がまた、いつものように切るんだろう。そしてもう二度と、彼から電話が来ることはない。自分が切るのと、彼に切られるのと。自分が終わらせるのと、彼から終わらせられるのと。それなら、前者の方がいい。自分から終われば、自分からまた始められる気がした。

 「じゃあ、ね。三年間、ありがとう。大好き。愛してるよ。」

 大好きで大好きでしかたがない彼の顔を見ながら、どうにか笑って電話を切った。大声で泣いた。終わってしまった。1年の片想いと3年の交際が、終わったんだ。私の全てだった彼が、私と関係のない誰かになった。私も、誰でもない誰かになった。

 

 これは、約二ヶ月前のことです。今久しぶりにあの時のことを思い出してパソコンに向かっていて、涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃ、声を抑えながら泣いています。これまで生きてきた中で、覚えている範囲では、一番痛い、心臓に穴を開けられるような時間でした。

  その後は、嫌でも彼のいなくなった自分と向き合わなければならなくなり、何度も死にたいと思うほどに苦しい思いをしました。何がそんなに苦しいのか、どうしてブログを始めることにしたのかというのは、この次の投稿で文字に起こしていきたいと思います。

 ここからは、電話のその後、今に至るまでの経過の話です。冗長になっているので飛ばしていただいて構いませんが、失恋したばかりで苦しんでいる人、好きだった人を忘れられない人が、自分だけじゃないんだ、と少しでも気を楽にできればと思い、拙い文章ですが書かせていただきます。

 

 その直後は、ずっと泣いていた。彼との共通の友達の子と、確か朝の3時くらいに相手が寝落ちるまで電話していた。睡眠時間4時間ほどで目が覚めると、大学の部活の友達に、別れたとLINEを送った。彼女も、私が家を出る時間まで電話で話を聞いてくれた。

 学校には行ったものの、授業中も気を抜くと泣いてしまいそうで、そして泣くのをこらえるのが苦しくて、午後の授業を休み、池袋のヒトカラで歌いながら泣いた。全ての歌の歌詞が自分と彼に重なって、ほとんど声にならない嗚咽を発していた。

 その後は、授業を休むことはなかったが、ふと思い出すと授業でも電車でも涙が止められなくなる。2ヶ月弱も経った今でも、なのだ。泣いていないときは、彼と別れたことを忘れているだけ。付き合っている期間、彼から連絡が来ない間はずっと”待機中”だった。今も、私の頭も身体も、当然のように彼を待っている。

 

 これまでに一度だけ、彼と会った。借りていた本を返すという名目だったが、そんなことはどうでもいい。ただ顔を見て、声を聞いて、匂いを嗅いで、それがまたできるのが何よりも嬉しくて、別れる前に本を借りた、そして別れる前に読み終わらなかった自分に拍手を送った(別れてから彼の名残だと3日ほどで2巻とも読み終えた)。

 新宿の南口改札前、少し早く着いた私は、いつも彼が待ち合わせに遅れて到着していたのを思い、化粧を直していた。少しでも可愛いと思われたかった。耐えられなくなって、やっぱり一緒にいたいって、言われたりしないかなって、願っていた。すると、のぞき込んでいたアイシャドウの奥に、見慣れたズボンと見慣れた靴が現れた。息を呑み目を上げると、1ヶ月間、見たくてしかたなかった彼の顔があった。かなり痩せていた。前よりももっと格好良くなったね。私はほとんど泣いていた。

 その後何を話したか、よく覚えていない。一浪して某T大に入った彼は、勉強が忙しいこと、勉強が大変なこと、勉強しかしていないこと、勉強が嫌なことなどを話していた気がする。私は、彼と戻りたいと思っていることを、正直に話した。一ヶ月で成長したから、もう大丈夫だと。彼の返事は曖昧なもので、要約すると、また縁があれば、ってとこだ。

 前みたいに改札まで送られ、もう振り返るまいと思った。泣いちゃだめだよと言われ、泣かないよと笑った。前の、弱いままの私じゃない。いつもなら三歩ごとに振り返っていたところを、かなり歩いて、かなり遠ざかった。きっともう振り返らないと、彼もわかっただろう。もう絶対にいなくなったと思ったところで、確認するためだと自分に言い聞かせ、ちらっと後ろを見た。行き交う人の流れの中に、動かずこちらを見ている影があった。

(ああ、見透かされた。)

 彼を、彼との日々を、振り返らずに生きていけるような私になったのだと、私は思っていた。戻りたいと思っているのも、前の関係にじゃなくって、もっと自立して、もっとちゃんとして、もっとずっといられるような、そんな二人になれるよって言いたかった。涙が出てきた。彼は会っている間ずっと、”他人と喋るとき”の話し方をしていた。電話で私を諭し、最後の愛情を注いでくれた彼とは、別の人間だった。私は?私は、その声のトーンに、口調に、ただただ動揺して、話の内容すらまともに入ってこず、置いてけぼりだった。虚しかった。彼から自立するための一ヶ月、彼は私のいない生活を取り戻し、私は彼に認められるためだけに頑張っていた。

 

 それから多少色々あって、彼とは連絡をとっていない。彼を嫌いになろうと必死に努力したが、無理なのだとわかった。今でも会いたくてしかたがないが、会えなくても愛おしいのは変わらなくて、幸せに生きていて欲しいと思っている。そして、私も幸せにならなくてはいけないんだと、やっと前を向いた。

王子さま、私はつまらない大人になったのでしょうか

 自分が大人だという自覚すらないまま、大人に、その上つまらない大人になってしまった。

 というのも、気づかないうちに物事の中身じゃなくって、外側ばかりを見るようになっていたのだ。本質じゃなくて、上辺。髄質じゃなくて、皮質…これは副腎の話か。

 

 例えば、ブログ。私はこのブログにブログ然としていて欲しかったのではない。自分の感情を、自分の好きな愛しい切ない痛い可愛いと思う言葉で書き残しておく、そんな場所にしたかったのだ。本来ブログがそうであるように、他人に見られることが本質、というわけではない。自分で自分の感情を言語化して整理して眺めて愛おしんで、たまに訪れてくれた人とはたまに対話して、でもあくまで自分の為に書くのが好きなのだ。

 ところが、共感あるいは興味を持ってくれる人が増えると、見られてる感覚が強くなる。それは徐々に強迫的になって、見られていなくてはならないような、評価されるものを書かなくてはいけないような、そんな気になってくる。自分の満足感より、目に見える評価を、数を、重視するようになる。読者が何人で、前の記事のスターは何個で……なんて、そんなことを考えるために書いているんじゃあない。でももうその感覚には抗えない。

 「前の前の記事がスター60だったのに、今回のは20だ…面白くないのかな?タイトルが悪かったのかな?内容は面白いはず、はずなんだけど……」

 

 見えてしまうと、人は目に見えないものを忘れてしまう。見える方が確実だから。自分一人が「よく書けた」と思うより、ついた「いいね」の数の方が信頼できる気がする。

 数は嘘をつかない。確かにそうだ。でも、数は全ての「本当」を、教えてはくれない。ある人からの一つのスターが、どれほどの感動や共感、重みを持っているのかなんて測れない。未だほぼ誰にも読まれていない、開始当初の記事こそが自分の思う最高傑作かもしれない。自分の書きたいこと、泣きたいと思うわけ、好きなこと、愛したものを、一番生き生きと書き出したのは、スター0個のあの記事かもしれない。

 それでも、本当のことはわからない。自分にはどうしようもない真理が横たわっていて、それの一部を、正しく見せてくれるのは数字のような気がしてしまう。

 

 思うに、大人になるとはそういうことなのだろう。いや、大人になる、つまり年を重ねる中で自然と蓄積されていく、ただの淀んだ副産物かもしれない。

 生まれたとき、生まれただけで喜ばれ、祝われた。数字で表される成長の痕跡(身長、体重……)は、他の新入りの命と比べられるためではなく、ただ過去と現在の比較として用いられ、その数字の大きさ云々よりも「その数字が存在すること」自体が人を喜びで満たした。または数字で表されない成長(立てるようになった、歩けるようになった、喋れるようになった……)が、人に愛されたし、自らの生の建設であった。

 小学生、早い人だと幼稚園児くらいの時期に、数字や可視化された評価基準を投げつけられるようになる。ひらがないくつ覚えられた、テストで何点だった、成績は二重丸が何個で三角が何個だった……。数字は常に比較するためにある。「あの子は100点ばっかりで頭がいい」「あの子はいつも他の人より酷い点数だから馬鹿だ」。

 数字がさも、人の一側面をわかっているかのように振る舞い出す。テストの点数や成績がそのまま、一人の人間の頭の良さを表しているような顔をする。全くわかっちゃいない。そもそもテストの点数や成績が表してるのは、純粋な「勉強できる度」なんかじゃなくて、それに運の良さや、やる気や、山を当てる勘の良さや、先生の話を聞く真面目さや、その他色んなものが混ざり合ってるただの「結果」に過ぎない。でも、平均より低ければ、頭が悪いというレッテルを貼られる。数字が「学力」だとみなされ、「学力」という一側面が、自分という一人の人間の一要素になる。

 人は、「学力」「運動神経」「性格」「容姿」「コミュニケーション能力」「芸術的センス」「経済力」……など諸々の項目を頂点にした正n角形のグラフじゃ表されない。でも、だんだんそればかりで測るようになる。ものの価値を値段に求め、店の良さをレビューに求め、学校の良さを偏差値に求めるように、自分の価値を人と比べた数字で測るようになる。

 

 サンテグジュペリの『星の王子さま』には、次のような節が織り込まれている。

 “大人は数字が好きだ。……数字を知るだけで、大人はその子のことをすっかり知ったつもりになる。”

 “ものは心でしかよく見えない。本当に大事なことは目には見えないんだ”

 この話を最初に読んだとき、小学生だった私は、自分は「大人」になるまいと思っていた。数字が教えてくれることなど僅かでしかないと。でも、大人になるにつれ、数字以外に何を信じればいいか、何が教えてくれるのか、わからなくなってしまった。目に見えるものを見すぎて、目に見えないものの見方を忘れてしまった。

 数字は何かを、目に見せてくれる。でも、目に見えることなんて本当はきっと、大事じゃない。私が何を、どんなふうに愛したかを書けたかどうかの方が、このブログの読者の数より、ついたスターの数より大事なはずだ。ある人がどんな表情で、どんな声色で、何を話すか、何を思っているのかの方が、その人の身長や学歴、着ている服の値段なんかよりずっと大切なことだ。

 大人になりかけてしまっている。何もかもわかっているようで、何一つわかっていない大人になろうとしている。もうなってしまったのかな。まだ戻れるかな。

 

 綺麗に写真映えするパフェより、ねるねるねるねが食べたいんだって。

 かっこよくて優しくて人望のある誰かより、確かに愛した、でも私を傷つけたあの人に、それでも幸せになってほしいんだって。

 あの人の、不格好も不器用も自己中も乱暴も全部含めて愛した、そのせいでたくさん傷ついた自分に、それでも愛してよかったんだよ、無駄なんかじゃないよって。

 言えるかな。

人間昇格試験

 恥の多い生涯を送っています。

 タイトルと1文目で気づかれた方もいるかもしれませんが、最近「人間失格」を読みました。

 太宰の作品は以前有名な「斜陽」とそれについていた「おさん」という短編しか読んだことがなかったのですが、どちらも暗いストーリーの中にどこか生き生きとした人間のしなやかさとも言うべき強さ、生命力が感じられて好きでした。

 太宰を好きだと言うと所謂トガってるアピールだと捉えられたり、あるいは根が暗いから暗いものを好むのだとか思われたりするのが鬱陶しいので、あんまりおおっぴらに言う気にはならないですがね。自分に対しても作品に対しても変なレッテル貼りをされるのは厭なものです。自分の好きなものの話をするのが好きでないと言う友人の気持ちが少しわかる気がしました。

 

 まあともあれ、このたびついに彼の代表作である「人間失格」を読んだわけです。この話には特別の心地よさを感じました。

 この手の話に“共感した”と言ってしまうと急に安っぽくなる気がして気が進まない、でも自分が日々持っている思いが彼の言葉で言語化されているのが心地よかったのです。

 今から書く感想、もとい夢想は、何かしらの批判に晒されそうです。気取り屋、厨二病、凡人、つまりありきたりな人間のくせに変っている、苦しんでいるアピールをするな、イタいと。でもそうだと思うならば、あなたも私の話に「共感」を覚えたのでしょうし、あなたと私が「人間」であるのと同じくらい、あなたと私がともに「人間ではない」可能性もあるのだと、考えてみてほしいものです。

 

 

 何が自分にしっくりきたのかと言えば、何度も出てくる「お道化」というやつです。他の人に笑っていて欲しい、そのために自分を多少落としても構わない、という態度は、私の場合もお話の主人公と同じく、おそらくお人好しというより人への恐怖から来ているのだろうと思います。

 思い当たることはいくつもあるのですが、私の場合一つによく食べよく飲む、というのがあります。健康的なようでいて、自分がどう見えるのかを意識した不健全な癖です。みんなで食事、となったときに(特にそこまで仲良くない人たちとの場合)、いわば頭のおかしい量を食べ飲みすることに命をかけたりします。学科旅行でご飯を5回おかわりしに行くだとか、教授の持ってきた日本酒を瓶1本半飲み干すだとか、飲み会では例外なくヘロヘロになるまで飲むだとか、そういうのは全部、お道化なのです。腹八分まで来たらこれ以上食べようという意志など起きないし、本当はお酒も酔っ払うのも好きじゃあないのです。

 へんなふうに目立って、ちょっと馬鹿になって、みんなをちょっと面白がらせることは、自分本来の人間味のなさ、面白みのなさを隠そうとしているのでしょうし、自分という存在を簡単に否定できてしまう、恐ろしい、他人という存在から自分を守ろうとする本能的な営みかもしれません。

 私はこの話の主人公の葉ちゃんほどお道化が得意じゃないので、葉ちゃんみたいに人気者になれたりはしません。でも、自分のすること言うことで誰かが笑ってくれたら、自分がその場にいていい気がするので、懲りずに大げさな演技をします。ばかだねって笑われるくらいが心地いいのです。

 所謂「天然」だと思われたいのです。ちょっとずれてるから同じ土俵に立たされない特権身分。私は「養殖」だけど、必死に「天然」の振りをして泳いでみせるのです。私のする天然のふりは多分馬鹿そうで、能天気に見えているのでしょうから、私のずっと暗い側面、生きることへの倦怠感や自分への嫌悪感なんかを垣間見てしまった人たちは少し戸惑うかもしれません。私は葉ちゃんに比べて、詰めが甘いのです。

 

 また、プライドを傷つけられた人ほど怖い生き物はいないので、必死でご機嫌伺いもします。人の頼みは基本、断りません。これも葉ちゃんと一緒です。相手の機嫌を損ねないために、自分は悦んでいる演技をします。相手が面白いと思って話していそうなことにはにこにこ笑顔を絶やさず、衝撃だと思って話していそうなことには目を丸くして驚きます。相手が気持ちよくなっているふうに見受けると、私もふぅと息をつけます。

 誰かとご飯を食べるときには、目を細めて口角を上げ頬張り、「幸せそうに食べるね」という言葉をいただきます。意識的なのか無意識的なのか、もうここまでくるとよくわかりませんが、たまに一人無表情で味わいもせず食べている自分を自覚すると、嗚呼あれは演技だったのかしらなんて、後になって思ったりします。純粋でいい子だわ、なんて、思ってもらえてたらこちらのものだし、馬鹿そうだと思われてもそれはそれで得なのです。

 「恋の駆け引き」なんていうのは苦手なんです。葉ちゃんとは違うかも知れませんね。これは寂しさからくるのかもしれませんが、返信をなかなか返さないとか、他の異性の影を匂わせて不安がらせるとか、つれない態度をして興味を持たせるとか、そういうのは私のやり方に反するのです。恐ろしくてしかたない。人にはその人に持っているだけの最大限の愛情を示していたいし、注いでいたいのです。しかしそうすると、何やら興味を持つだけの人間に思われないらしく、次第に相手にされなくなります。私はそれに不平を言う権利もなく、ただ次の標的?いや、むしろ自分を釣ってくれるかも知れない釣り人の針にかかっているふりをしにいくのです。

 

 自分がこんなことを考えて生きているから、周りの人だって自分を欺いているのだと、だから気を許してはいけないのだと、肝に銘じています。実際に信じて痛い思いをしたことだって、いくらでもありますから。みんな自分が一番で、自分がどうすれば一番かっこうよく見えるかなんて考えて、どうすれば自分が幸せになれるかを探って生きているのでしょう?

 畢竟みんな自己中心で生きているのです。他人への奉仕に明け暮れる人は、他人に貢献し認められる自分に飢えているのではないでしょうか。いえ、そうじゃない人がいるのだろうことは知っておるのです。ただ自分にとっては、無償の愛を与えられる人間の方がよほど気味悪く感じられるということなのです。

 

 葉ちゃんは、人間ではないのでしょうか。人間として失格なのでしょうか。私には彼こそ、人間の波に揉まれて生きる人間の、自覚すべからざる本性なのではないかと、思われてならないのです。たぶん、自分がそうであるからなのでしょうね。葉ちゃんが人間でないなら―人間失格なら、私もきっと、人間ではないのでしょう。

 ご機嫌伺い、おべっか使い、うすのろの仮面を被った灰色の何かが人間でないというのなら、私は早く人間になりたい。そうです、他人の顔色を見ない、自分というものの形をしっかり認識している、たまにいる、そんなように見える人こそ人間なら、嗚呼、人間はどれほど生きやすいのかしら。他人の感情に曇りが見えても罪悪感を感じずにいられる能力は―あるいはそれを「見られない」という能力は―、どうやったら得られるのでしょう。

 他の才能と同じように生まれつきのものなのか、それとも努力で得られるものなのでしょうか。人間失格の何かが、人間になるためにはどのような試験を受ければいいのかしら。生を悦ぶ人間に、どうやったらなれるのかしら。

 

 

あいらぶゆーが聞こえないぜ?

 

   愛されるって何だったっけ。

   てかまず愛されたことあったっけ。

   みんな愛とか好きだとかなんとか言うじゃない。それほんと?何を根拠に好きだって言ってるの?

    その人を好きだって思ったのは、その人で穴を埋めたいから?その人がいないと生きていけないから?溺れてる時に掴んだ藁を、君は愛してるんですか?

    ほんじゃあどうだったら愛してるって言えんでいって、そんなのこちらもわかりんせんわ。愛してるって口に出したら愛してんだって、ほんなら私も愛されていたはずなんだけど。好きって言われたら信じてみたら、やっぱり好きじゃないってさ。私はその言葉ですっかり「好き」になっちゃえんのにさ。

    「好き」って「隙」なんじゃ?私を好きになってくれるような、その心の隙を好きになっちゃうねん。そのちっこい隙間に入り込んで、ぬくぬくしてたいと思っちゃうのよ。なんて、今思いついただけだけど。

    私はあいつを愛してた。これも本当かわからない。無償の愛、なんかじゃない。あげた分、あげた以上が帰ってくると、信じてたから賭けたんだ。ただのギャンブル依存症。ちっとも綺麗なもんじゃなかった。あいつだって、貰える分だけ好きだっただけ。愛なんてない。愛なんてない。

    存在しない愛なんて、求めて何の意味がある?なのに何で求めてる?自分を愛せてないからじゃん。愛も恋も一旦おやすみ、コンビニプリンとゆっくりお風呂で幸せになってからおやすみ。

 

    

あい

2021年 大学入試共通テスト 国語

 

第二問

 次の文章は、夜名七夕多『あい』の一節である。主人公の七夏は、八ヶ月前に別れた元恋人冬紀に対し、嫌悪感を抱いている。ある日、冬紀との共通の友達サチコから、冬紀が大学を辞めようとしていることを聞いた。これを読んで、後の問いに答えよ。

 

 

 雨に濡れた道路は街頭や店の明かりなんかを反射して、晴れた夜の帰り道より明るい。七夏は悴む手で自転車のブレーキを握りしめつつ、前より遠くを見据えていた。

 「馬鹿はやっぱり馬鹿だな」。冷たい風の音を赤い耳に感じながら、凍てつく痛みの中に昨日の会話を思い出す。

 

 最初にそれを聞いた時、自分がしそうな、そしてするべき反応をとった。

 「え、笑うわ。」

 軽く冷たい嘲笑だった。少なくともそう見えたはずだった。流石に自分でも、あまりに非道な気がしたが、ここで引き下がってはいけない気もやはりした。心の底で少し影を見せた何かを、声には出ないよう押さえつけた。

 「はは、大学辞めて、何すんだろうね。意味わからないね。」

 サチコは七夏の反応に安堵しているようでいて、少し意外に思った素振りを見せた。七夏もそうとはいえど驚きはして、心臓が脈打つのを感じた。ただいい気味だと思った。自分はきっと、いい気味だと思っているはずだ、と思った。

 

 冬紀とは中学からの仲だった。もう出会って5年になるだろうか。最後の一年を除けば、ずうっと、くっついて離れなかった気がする。そんな事実に身震いをした。

 「別れよう」

 言ってきたのは冬紀の方で、その時の、世界が真っ白になる感覚を未だに覚えている。つい最近のようで、もうずっと前のことだ。

 別れてから、冬紀の自己中心的さを思い出しては、どんどんと嫌気が差してきた。他人の進学先にも友達づきあいにも、いちいち自分の好きなように干渉できる、その横柄さに、そして自分のしたことなんて無いことにして、平気で相手の気持ちを無下にできる、その無神経さ、自分好きさに、腹の中にふつふつとわく何かを感じる。

 いや、それより、自分か。あの男の傲慢を許してきたのは自分だったか。自分の来たるべき不幸を受け入れたのは、自分だったか。自分は本当の馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。冬紀に対する怒りよりもより黒く、粘着質な憤怒が肺を覆う。子供のように可愛がっているようで、何よりも恐ろしかったのだ。仕方ない。吐きかけた言葉を吸い戻して、無理矢理な深呼吸をした。

 

 付き合っていた年数などあっけないもので、別れてからほとんど連絡すらとっていない。半年も経てば、過去のことなど夢のように感じた。悪い夢だったのだろう。私とあいつがそうだと言えば、いつでもこれは夢に仕舞える。

 今は大学の勉強に部活にアルバイトに、てんてこ舞いの日々だ。かつての淡い、いや、濃い恋心を、思い出すことはほぼない。新しい恋もした。すぐ破れたが、着実に前へ進んでいる。そう言って自分を宥めることは、ここ半年の七夏の癖になっていた。

 

 踏切に止められた。アルバイトの家庭教師をしている家庭からもらった、コンビニのシュークリームを頬張る。冬の冷たい雨は前髪を伝い、睫毛を濡らし、鼻を滑る。

 ある雨の日を思い出す。冬紀の塾へ迎えに行った、二年以上前の日のことだ。その日もやはり冷たい雨で、鞄をがさごそする冬紀に傘を差してやっていた。

 「俺、K大受けようと思う。」

 無機質な声だ。何の意欲も、熱意も感じられない。その告白の内容もやはり意外ではなくて、でもそれを彼の口から聞いたのが何か嬉しくて、七夏はその言葉に満たされていた。

 「そおかぁ、頑張って。応援してる。」

 一番近くで見守った。相談にも自慢にも乗った。だから去年受かったと聞いたとき、きっと誰より、本人よりも喜んでいた。誰よりも、あの男の、多分人生最大の頑張りを知っているから。他人の幸せを喜ぶと言うより、自分の幸せそのものだったのだ。

 その大学を、辞めるらしい。もう他人よりも遠い人のことなど、気にする理由もない。情なんて無駄なもの、もう持ち合わせていない。過去も現在も未来も、永久にさよならだ。

 

 「受かったよ。今までありがとう。これからもよろしくね。」

 馬鹿はやっぱり馬鹿だ。熱を帯びてきた雨粒を振り落とすように首を振った。

 

 

 

問1 七夏のとった反応が、「自分がしそうな、そしてするべき反応」であったのはなぜですか。50字以内で答えなさい。

 

問2 「馬鹿はやっぱり馬鹿だ 」とは、誰のどのような言動・状態に対するどのような気持ちですか。70字以内で答えなさい。

 

問3 あなたが七夏なら、どのように生きたいと思いますか。理由も含め、500字以内で論理的に述べなさい。

センター2020 一日目 レビュー☆☆☆☆★

 朝、目はなかなか覚めなかった。まだ暗い。いつもより暗い。

 ああそうだ、今日は雪が降るらしい。昨日教授が言っていたっけか。

 センターの日はいつも雪が降る。らしい。

 

 半分寝ぼけた頭で、機械的に起きた。今日が人生を左右する日になりうる。そんな言葉で自分を殴ってみても、やはりぼーっとした痛みしか感じなかった。

 親と顔を合わせる。体調はどうだ?何食べていく?うーん、美味しいものがいい。明らかに親の方が緊張している。二年前は逆だった。

 家を出る。好きな音楽を聴く。あー、来週遊ぶ予定があるんだ。そうだ明後日、髪を切るんだ。意識は目の前よりちょっと先へ向いていた。現実逃避だろうか。気にしていないふりだろうか。

 

 センター前日、前々日、授業には出なかった。さすがに勉強すべきなのだ。

 二年前の自分を思い返す。本番の2日前くらいに、地理Bの過去問で69点を取って、机に向かって泣いていた。どうしよう。本番もとれなきゃ落ちちゃうかも知れない。実際のところちゃんと計算すれば、こんな点数だって落ちることはないとわかったはずだ。それでも不安で怖くて泣いていた。それを見た母親が、背中をさすって慰めた。今思えばそんなこと、泣くに足らないのだけれど。若かったなんて言ってみる。

 泣きたいのは私の方だ。普通に考えたら。なんで受験を乗り越えた二年後、また同じ苦しみを味わおうとしているのか。その決断をするのに足る理由は、地理69点よりよほど痛いものではないか。

 大学の授業を休んで解いた数IIBの過去問は、69点だった。ふうん。あり得ない点数だね。自分の中の自分でない誰かが言う。まあ、いんじゃん?圧縮されちゃえば数点の差だよ。かわいげなく年をとってしまった私は答えた。

 

 会場の最寄り駅まで、申し訳程度の復習をする。世界史の教科書に、今日の答えを求めているわけじゃない。ちゃんと覚えてる自分を確認したいのだ。大丈夫、大丈夫。私は歴史学徒だ。フランス・アンシアンレジームか、中国の儀礼音楽か、イスラムジェンダー問題くらいしか勉強していないけど。

 会場の門の前、急に動揺した。知ってる。知っている人がいた。高2の時の英語の先生と、一度も教わったことのない高校の世界史の先生。にへぇと笑って、どうもぉと言った。私が通り過ぎた後に、「なんか見たことある……」という声が聞こえた。一学年300人いる学校の、二年前の生徒だもの。恥ずかしさか寂しさか、いたたまれなくなりながら教室に入った。

 今更何をやってもね。自分の機嫌をとることが大事だと、途中買ってきたチョコレートをかじり、やはり好きな音楽を聴きながら、教室内の母校の生徒なんかを眺めていた。そうこうするうちに、ちょいちょい原稿にアドリブを入れてくるおばちゃん試験監督の「それでは試験を開始してください」の声が聞こえ、実感のないまま問題を開いた。

 

 いやはや、全く以て眠い。人は緊張すると眠くならないもので、だとすれば私は緊張していない。英語をうとうと解きながら、どうでもよくなっていってるのを感じた。いつもなら表を解読する大問に、なぜかぐるぐる模様があった。眠っていいということだろうか。15秒くらい寝て、ぐるぐる模様が的の絵で、問題になっているのだとわかった。

 その前の社会の時間は、さすがに緊張していた。記念すべき一教科目の世界史は、どうも様子がおかしかった。私を歓迎し、私が歓迎したはずの愛すべき世界史は、どうも具合が悪いらしい。冷たい。私の知っている表情を見せてくれない。そっぽを向いて、どうしちゃったの。ねえ、いつもみたいに、私が愛されてるって確信させてよ。ベルンシュタインなんて、君らしくもないじゃん。ファーティマ朝だって、知ってるけど、年号を聞いたことなんてなかったじゃない。。

 地理はもともと嫌いなので何の感想もない。というのも、あいつは気まぐれなのだ。たまにこれはわかるぞ!となるようこちらの気を引いといて、すぐに手のひらを返す。好きになろうと頑張っているのに。お前の方からは絶対に歩み寄ってこない。私は私に優しくしないやつなど好きにならないと決めたのだ。……二次ではよろしくたのんますほんまに。

 国語。私は模試の国語大得意マンで、学年一位にも全国二桁位/16万人にもなったことがある。ただしお前(センター)はだめだ。選択肢にいつも答えがない。絶対私が一から記述した方が上手い答えになる。この点では共通テストの記述式には期待したいところであった。でも今回はどうも上手くいった。答えが浮かび上がってくるように見えたのだ。ただ一つ浮かばない問題があった。漢文に開いた一つの穴に一文字の感じを埋める問題だった。いや、山が対するっていったら空やん…と漢詩である意味をガン無視して答えた。それと語彙問題の二問のみ落とし、これまでで最高得点大満足☆5。

 

 そのうちに自己採点してみると、なんと554/600。9割を超えている。うとうと英語196/200が激ツヨだった。他はまあうん。国語189、世界史87、地理85。悪くはないわねという感じ。これで数学30点でも足切りかからない!ほっとして、眠くて眠くて、寝た。

 

 ☆2の2日目も書きたかったのだけど、眠いし明日授業内発表なのでまた今度……おやすみなさい!!

 

 

一女子によるセックスについての考察というか雑記

 こんばんは~~よななゆたです。

 大晦日も元日も書こうとはしたのですが、日付が変わるまでに間に合わず。こんな中途半端な時期になってしまいました…。

 改めまして、あけましておめでとうございます。今年がみなさんにとっていい年になりますよう、そして私にいい出会いがありますよう……タノムッ

 

 はい、ということで、今日もやっていきたいと思います。

 いつもこのブログを読んでくださっている皆様は多分、こいつついに頭イカれたな…と思われたことでしょう。そしてタイトルを見て初めてこのブログを開いてくださった方がいれば…大丈夫です。健全です。私もこのタイトルを見たらつい右左の安全を確認した上で開いてしまいます。

 皆様が思われているように、現在私は少々頭がおかしいです。まあそんなのは元彼と付き合い始めた4年前からずっとそうなのですが。ただセンター試験まで2週間を切って…2週間!?にに、にしゅうかん!?ゴボゴボゴボ……(泡を吹いて倒れる)

 まあセンター試験を目前に控えた受験生が書くべき内容ではありませんね。何故今これを書くのかと言えば、気分です。息抜きです。または現実逃避です。セックスについて考えたあれこれをとりとめなく書き連ねたものです。内容は18歳以下の人にも見ていただけるよう調節したいと思います。できてなかったらゴメン。

 

 この前のバイト中のこと。

 私 「だから~こことここを足すと~こうなって…」

 生徒(小学生男子) 「先生、セックスって知ってる?」

 私 「…せっ…!?」(…いや、知っている。確かに知っている。教科書的説明はできる。正規の目的も、ある程度の作法も、感覚も少々はわきまえている。しかし彼の中の「知っている」はそのような浅く狭い経験と保健体育の域を出ない知識なんかじゃなく、もっとこうなんか、深いところを差しているのではないか…果たして私はこの人間、いや生命の営みについてどれほどのことを知っているのだろうか……)

 私 「ま、まあ、生徒くんが知ってるくらいには私も知ってるわよ。」

 

 なるほど、小学生でもこの行為について知る機会があるのか。そういえば私も単語自体は小学生の時に聞いた。保健体育や理科では人間の誕生について、たまごやらおたまじゃくしやらの図を見て勉強した。しかし、だ。怖いことにみんなが噂している得体の知れない「セックス」というものと、保健体育で習った「射精」「月経」「受精」とかいう体の仕組みが全く結びつかなかった。中学保健体育は5をとったが、「いや結局具体的に何したら子供ができるんじゃい」と中三くらいの時まで思っていた。

 私のそういうものとの劇的な出会いは確か中学生の頃で、家にあった多分父のであろう、そして多分隠されていたのであろう漫画を見つけて読んだのである。なんと、裸の男女が抱き合っている。その時は何がしたいのか全くわからなかったが、そういう大人が子供に隠している世界の欠片を見つけるにつれ、「セックス」というものと「人の誕生」が結びついているのだと知った。

 しかしながら、さらにそのような情報に触れていくと、どうも子供が欲しい場合にのみその行為をするわけではないとわかってきた。その行為をしながら「子供できたらどうするの!」なんて台詞が出てきたりする。意味がわからない。自分が望んでやってるんちゃうんか?全く以てわからない。

 

 そんな感じで、純粋無垢で控えめな女の子であった私は、結局「セックス」が意味する具体的な行為と目的がわからないまま高校生になった。詳細な描写は控えるが、その無知さのまま実体験をすることになる。あえてその時の私の心の声を挙げるなら(わー、ほんとに、ピーをピーするんだ…あれはフィクションじゃなかったんだ…)ってとこだろう。本当に、小中生の性教育は真面目にやってほしい。性の乱れを助長するからとか言うけど、まじで私みたいな無知かAVを教科書にした勘違い坊やしか生まれない。まじで。

 というのはおいといて。私の感想としては、相手を好きで手を繋ぎたい、ハグしたい、キスしたいというような距離を縮めたい感情・欲求の延長線上にあり、かつその究極的な形がセックスなのだと思う。もちろん生理的欲求であるから、相手がいずとも生じうる感覚だとは思うが。

 自分の好きな、そして自分のことを好きな人とするセックスしかしたことがないので、私には好きな人とする以外の選択肢がない。舌が肥えてしまった。おかげで少々飢えているのかもしれないが、好きでない人とするくらいなら餓死した方がいい。

 

 でも冷静になって考えると、セックス中の人間はたいそう滑稽な姿だと思う。防御力ゼロの恰好で、人間の最大の武器である理性を手放し、ただひたすら欲求に従う姿というのは、見るに堪えないものがある。まして、いつも知的な会話をともに楽しんでいるはずの友人たちがそうなっているのを考えると、頭がギャップに耐えられずショートする。そして自分の豹変も、自分の理性を超えたものであったから、やはり怖く感じた。

 ほとほと非合理的な仕組みだと思う。今や子供を作る時期は「家族計画」によって決めるもので、完全に理性の支配下にあるべきとされている。それなのに欲求の方は退化せず、本来の目的を果たせないまま機能し続ける。一人の人間の中で、ズレが生じているのだ。

 

 三大欲求のうちで、もっともたちが悪いのは性欲ではないかと思う。その一番の理由は、他の二つと違って相手を必要とし、本能と直結する欲求であるにもかかわらず、相手の合意がないと満たすことができないからだろう。だから問題が起こるのだ。

 ものすごく頭が良くて、しかも自制し自分の未来に投資する理性を備えたエリートと呼ばれるような層の人間が、愛人を作り不倫したりする。責任ある立場の人間が、欲求を抑えられず人を傷つけ、自らのキャリアまでも水泡に帰す。大事な人を裏切って、傷つけて、自分も不名誉を被ってまで求めたものは、その瞬間の「気持ちいい」だったのだ。人間を高等生物と呼ぶのもアホらしいなと思ってしまう。

 

 ちょっと明るくない話になってしまったが、基本私はセックスを嫌いじゃない。理性を外せるということは、人との間にある障壁を壊せるのだとも言えると思う。必ずしも理性が働かないわけではないし、もちろん相手も外す意志があることを前提として。だから同意のもと行われるセックスは基本好ましいものだし、めちゃくちゃ好き同士のセックスは素晴らしいものだ。私も早くやりたい。

 そうだ、セックスをセックスと呼ぶかエッチと呼ぶかおせっせと呼ぶか仲良しと呼ぶかその他か…ということについて最近真面目に考えた。この記事の中ではずっとセックスで通しているが、私はセックス派なのだ。いやなんか、勝手な嗜好だけど、男の人が普通の会話でエッチって言ってるとちょっとなんかこう…あまりタイプじゃない。それ以外の隠語的呼称を使うのも男らしくないと感じてしまう。男らしいとかいう観念はジェンダー論からするとよくないので、あくまで私の好みとして。そんで自分もかわいこぶってるっていうかなんかちょっと気持ち悪いからあまり使わない。まあでも好きな人がエッチって言ってたらうわーんエッチする~~~ってなるからまあ結局どうでもいい。そう、好きな人の前でだけはエッチって言いたいという勝手な願望もある。外向きのセックスとプライベートなエッチは使い分けたい派なのだ。ところで私は何を言っているのだろう。

 あ、でもう一つ。また私の勝手な好みになるが、私の好きなタイプはむっつりだ。しかしこれ割と女子みんなに当てはまると思う。こちらから見て性的な話題をわざわざ女子の前でちらつかせてくる男というのは不審者に近い。そういうのほんと興味ないんですって顔をしてほしい。この前カラオケに一緒に言った男子が私に合わせて歌ってくれていたのに、セックスって歌詞のとこだけ歌わなかったのは好感が持てた。私がどんな曲を歌ってるかは置いといて。そんな感じで、性欲とか特にないけど~って顔をし、ただ私を好きだから付き合って欲しい。そして付き合ってみたら実はほんとはこんなことやあんなことしたい!!!だって好きだから!!!っていうのがいい。理想。大好き。ええっと、私は何の話をしているのかな。

 

 ふう。つい喋りすぎた。人類共通の話題はエロだって言うし、しかたあるまい。この記事は完全に自分が考えた人に言えないことを書き連ねてみた自己満です。なっかなか女子同士こういう話できないから、吐き出さないとね。このブログが身内にバレた時が私の命日だ…

 

おもいおもい、しののろい

    ある朝、まだ暗いうちに目を覚まし、まず最初にスマホの画面を見ると、そこにあるはずのない―あるべきでない―名前とメッセージがあった。何か返した気がする。でももう一度寝て起きたら、夢だったような気がしていた。

    LINE画面を開くと、彼からのメッセージに一言「何」とだけ返している。改めて彼の名前を見るだけで、心臓が拍動を強め、速め、息が苦しくなった。これはトラウマから来る反応などではなく、非現実を目の当たりにした不安と、どうしようもない好奇心からのものだ。

    返信は夜まで来なかった。部活を終えた帰り道、彼と電話した。3ヵ月ぶりだ。

    内容は書くまい。そういう約束をした。ここには私の感じたことを書く。第一、彼が私に訴えようとしたことなどどうでもいいのだ。彼の口から発せられる、私と関係のない事柄などどうでもいい。聞きたくもない。

    まああらましだけ書くなら、私と別れて1ヶ月後、新しい彼女らしき人ができたらしい。すごく大事にしたのに、突然裏切られたのだと。

    ここに二つ、私にとっての非常な関心ごとがある。一つは、私が彼を振り向かせるべく必死で色んな努力をしていた時期に、彼はもう他の人を好きになっていたということだ。それを非難できる立場ではないし、そうしたいわけではない。ただ、私の中でのあの人の大きさに対してあまりにも、あの人の中に私は、残っていられなかったようだ。堪え難い苦しさや憤激に近い感情を、彼に悟られないように必死だった。私は彼のことを忘れた体で生きているし、自分でもそうでないと気づくわけにはいかない。

    もう一つは、彼が「大事な」人を作った、ということだ。私にとって彼が「大事」でしかたなかったのは、平素から読者の皆様に訴えている通りである。ただ、彼にとって私は多分、好きな人ではあっても、大事な人ではなかった。少なくとも、別れた後も大事に思うような人ではなかった。それどころか、彼の言い分を聞けば、別れる直前の彼が大学に入った時期、私は彼にとって精神的な拘束にしかなっていなかったようである。自分の過去の過ちをダシに、自分を飽かず欲しがる、彼の生活の足枷だと、まあ、そう言いたかったのだろう。

 彼の手で友達知人との関係を絶っていた私にとって彼は、最愛の恋人であり、一番の(そしてほぼ唯一の)気の置けない友達であり、全財産であった。そんな存在が、私の手の届かない場所で、私の行けなかった大学で、私の知らない人たちと仲良くなっていく、その不安、恐怖だけは鮮明に覚えている。私の要求は、ちょうど某ジ○リ作品に出てくる坊のように(私は彼によく坊に似てると言われていた)、「かまってくれないと泣いちゃうぞ」だったのだ。そんな拘束にうんざりした彼は私と別れ、晴れてまた好きな人を作った。そして彼は今度は、与えたのだ。私にも色々なことをしてくれたけど、私に対してよりずっと多くの愛を、与えたようだった。存在を愛おしいと思っているようだった。そして多分別れて何ヶ月か経っても、引きずっている。まるでブログに元恋人との思い出と憎しみとその他諸々を鬱々と綴り続ける誰かのように。

 いやもう、ここでしんどくて泣いちゃうよね。自分があまりにもすぐに、過去の人になっていたことも、自分でない誰かは自分のなれなかった何かになれていることも、全部耐えがたい。彼は自己中で思慮が浅いから、それを聞いている私がどんな気持ちかなんてちっとも想像できなかったんだろうけど。

 私はもう彼を好きじゃないんだから、ちゃんと正しいことを言った。言うべきことを言った。彼が欲しかった言葉じゃない。傷つけた。今度こそ本心をちゃんと言えた。

 そう思って二時間くらいの通話を終えて寝たのだけど、次の日から時間が過ぎるごとに苦しくなった。上で言ったようなことも辛かったのだけど、あんなに傷ついている彼を、さらに傷つけてしまった。本当は、大丈夫だよ、私はそばにいるよ、愛してるよ、と抱き締めたかった、気がする。自分が傷つくのと同じくらい、傷つけるのは痛い。

 

 そしてその数日後、友達の男の子に会った。その人とその友人と会って、それぞれの恋愛観について話したのだけど、彼らのそれは私のそれとはあまりにかけ離れていた。多分私のは、前の人といるうちに作られてしまったのだろうけど。

 どうも多分、彼らの、そして割と多くの人の中で、恋愛ないし恋人という存在は、生活を彩るアクセサリの一つであるようだ。そして私の話した彼らは、「ネイルってそんな必要かな~あんま興味ないんだよな~」という私と親友との会話のように、「恋人って何の意味があるんだ?いなくても充実してればよくね?」という軽やかさで恋愛について語っていた。

 私はそうじゃないみたいなのだ。恋人という存在が常にいて欲しいわけではなくて、ある人を、大事な人を恋人として、自分の人生をかけて愛したいと思ってしまう。

 元彼が新しい彼女を「水をあげて大事に育てた」と表現していたのも、少々傲慢な気もするが、きっとそれだった。

 背は低いし、頭もそんなによさそうじゃないし、人望もあまりないし、わがままな彼が、それでも未だ愛おしくてしかたないのだ。きっと他の人と付き合っても、あの時ほど幸せにはなれないんじゃないかと思える。あの人ほど心置きなく愛せる人はいないんじゃないかと思ってしまう。

 でももうない。あの人は戻っては来ないし、戻ってきてもまた付き合う選択肢はない。あの三年間を懐かしんで、心の片隅で彼を想って、あの人がもし死んだら、私も死のう。あの人が他の、大事な人と一緒になったら?それでもやっぱり私は、死んでしまうな。