逃がされた魚

大きくなりたい。

失恋した女子大生の話

 「―あのね、私ね、昔もらったマグカップすごく気に入っててね、毎日使ってるよ。あと、もらった水筒も使ってるし、手袋も、あなたからもらったもの全部、見るだけで幸せな気分になるの。それでね、えっとね、、、」

 5月19日の日曜日、午後11時頃。私はもう目前まで迫っている”終わり”を遠ざけようと、必死に言葉を探していた。私が言葉を途切らせたら、”終わって”しまう。そう思えば思うほど、焦りで頭は回らなくなり、言葉の代わりに涙ばかりが溢れて零れ落ちた。

 「もう、そろそろ終わらないと。話してたら、どんどん、別れられなくなるから」

 ビデオ越しに、彼も泣いていた。三年間付き合っていて、泣き顔をちゃんと見たのは初めてだった。驚くほど優しい声で諭された私は、とうとうその瞬間が来るのだと、愈々大声で泣き出した。

 「いつもこっちが切ってたから、今日はそっちが切らなきゃだよ。そうじゃないとまた電話、できる気がしちゃうから。」

 返事ができない。私から切られるわけがない。だってそうでしょう。いつもの電話を終わるときも、デートの終わりに改札へ送ってもらったときも、私はいつだって自分から切れなくて、最後まであなたの言葉を待ってて、なかなか離れられなくて、改札を通っても何度も何度も振り返っていたのに。この、人生で一番幸せだった三年間を、自分の手で終わらせるなんて、できっこないじゃないか。

 でも。私が切らなかったら、彼がまた、いつものように切るんだろう。そしてもう二度と、彼から電話が来ることはない。自分が切るのと、彼に切られるのと。自分が終わらせるのと、彼から終わらせられるのと。それなら、前者の方がいい。自分から終われば、自分からまた始められる気がした。

 「じゃあ、ね。三年間、ありがとう。大好き。愛してるよ。」

 大好きで大好きでしかたがない彼の顔を見ながら、どうにか笑って電話を切った。大声で泣いた。終わってしまった。1年の片想いと3年の交際が、終わったんだ。私の全てだった彼が、私と関係のない誰かになった。私も、誰でもない誰かになった。

 

 これは、約二ヶ月前のことです。今久しぶりにあの時のことを思い出してパソコンに向かっていて、涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃ、声を抑えながら泣いています。これまで生きてきた中で、覚えている範囲では、一番痛い、心臓に穴を開けられるような時間でした。

  その後は、嫌でも彼のいなくなった自分と向き合わなければならなくなり、何度も死にたいと思うほどに苦しい思いをしました。何がそんなに苦しいのか、どうしてブログを始めることにしたのかというのは、この次の投稿で文字に起こしていきたいと思います。

 ここからは、電話のその後、今に至るまでの経過の話です。冗長になっているので飛ばしていただいて構いませんが、失恋したばかりで苦しんでいる人、好きだった人を忘れられない人が、自分だけじゃないんだ、と少しでも気を楽にできればと思い、拙い文章ですが書かせていただきます。

 

 その直後は、ずっと泣いていた。彼との共通の友達の子と、確か朝の3時くらいに相手が寝落ちるまで電話していた。睡眠時間4時間ほどで目が覚めると、大学の部活の友達に、別れたとLINEを送った。彼女も、私が家を出る時間まで電話で話を聞いてくれた。

 学校には行ったものの、授業中も気を抜くと泣いてしまいそうで、そして泣くのをこらえるのが苦しくて、午後の授業を休み、池袋のヒトカラで歌いながら泣いた。全ての歌の歌詞が自分と彼に重なって、ほとんど声にならない嗚咽を発していた。

 その後は、授業を休むことはなかったが、ふと思い出すと授業でも電車でも涙が止められなくなる。2ヶ月弱も経った今でも、なのだ。泣いていないときは、彼と別れたことを忘れているだけ。付き合っている期間、彼から連絡が来ない間はずっと”待機中”だった。今も、私の頭も身体も、当然のように彼を待っている。

 

 これまでに一度だけ、彼と会った。借りていた本を返すという名目だったが、そんなことはどうでもいい。ただ顔を見て、声を聞いて、匂いを嗅いで、それがまたできるのが何よりも嬉しくて、別れる前に本を借りた、そして別れる前に読み終わらなかった自分に拍手を送った(別れてから彼の名残だと3日ほどで2巻とも読み終えた)。

 新宿の南口改札前、少し早く着いた私は、いつも彼が待ち合わせに遅れて到着していたのを思い、化粧を直していた。少しでも可愛いと思われたかった。耐えられなくなって、やっぱり一緒にいたいって、言われたりしないかなって、願っていた。すると、のぞき込んでいたアイシャドウの奥に、見慣れたズボンと見慣れた靴が現れた。息を呑み目を上げると、1ヶ月間、見たくてしかたなかった彼の顔があった。かなり痩せていた。前よりももっと格好良くなったね。私はほとんど泣いていた。

 その後何を話したか、よく覚えていない。一浪して某T大に入った彼は、勉強が忙しいこと、勉強が大変なこと、勉強しかしていないこと、勉強が嫌なことなどを話していた気がする。私は、彼と戻りたいと思っていることを、正直に話した。一ヶ月で成長したから、もう大丈夫だと。彼の返事は曖昧なもので、要約すると、また縁があれば、ってとこだ。

 前みたいに改札まで送られ、もう振り返るまいと思った。泣いちゃだめだよと言われ、泣かないよと笑った。前の、弱いままの私じゃない。いつもなら三歩ごとに振り返っていたところを、かなり歩いて、かなり遠ざかった。きっともう振り返らないと、彼もわかっただろう。もう絶対にいなくなったと思ったところで、確認するためだと自分に言い聞かせ、ちらっと後ろを見た。行き交う人の流れの中に、動かずこちらを見ている影があった。

(ああ、見透かされた。)

 彼を、彼との日々を、振り返らずに生きていけるような私になったのだと、私は思っていた。戻りたいと思っているのも、前の関係にじゃなくって、もっと自立して、もっとちゃんとして、もっとずっといられるような、そんな二人になれるよって言いたかった。涙が出てきた。彼は会っている間ずっと、”他人と喋るとき”の話し方をしていた。電話で私を諭し、最後の愛情を注いでくれた彼とは、別の人間だった。私は?私は、その声のトーンに、口調に、ただただ動揺して、話の内容すらまともに入ってこず、置いてけぼりだった。虚しかった。彼から自立するための一ヶ月、彼は私のいない生活を取り戻し、私は彼に認められるためだけに頑張っていた。

 

 それから多少色々あって、彼とは連絡をとっていない。彼を嫌いになろうと必死に努力したが、無理なのだとわかった。今でも会いたくてしかたがないが、会えなくても愛おしいのは変わらなくて、幸せに生きていて欲しいと思っている。そして、私も幸せにならなくてはいけないんだと、やっと前を向いた。

疲れたってば

 どうもね、心に雲がかかっています。雨が降ったり雷が鳴ったり、でもなかなか晴れてはくれません。本物の梅雨に先駆けてジメジメとした気持ちが生まれてしまいました。

 うーん。この時期は去年、何してたのかしら。手帳を見てみました。なるほどそうだ、何でか忘れたけども、GWなのに彼に会えなくて、半ばいじけながら友達の家に遊びに行って、一人で「愛がなんだ」を見に行ったんだ。やっぱりあの人といないと退屈だなんて思いながら。

 なーんだ。コロナがなくたってあれと付き合ってたって、私はつまらなかったんじゃないか。多分一年経って同じ退屈さに戻った。別れた後から持ち続けてた悲しみは薄れて、薄れて薄れて、ほとんど見えなくなって、残った虚無感をどうしようもなく抱えてるだけ。いやまあ知らんけど。

 彼と会えるかどうかで心をときめかせたり落ち込ませたりしていた頃と、何があろうとなかろうと曇ったため息を吐き続けている今と、どっちの方がいいかといったら、どっちだろうね。

 きっとコロナさえなければもうちょっと、忙しく学校と遊びと家を行ったり来たりして、退屈を追い払えたんだろうけど、もう何を言ってもしかたない。こんな状況でも恋人とまったり家で過ごせている人やNetflixを楽しめている人はいる。私がそれではなかっただけだ。

 いや、「私がそれではなかった」案件多すぎてちょっとね、そろそろくるものがある。入学早々勉強をこなしつつも友達と遊びに行って恋人とか作っちゃうような学校生活を、他の年の新入生は送っている。私はそれではなかった。才能と経験と資本を持って、自分の有益だと思う生き方をしている人がいる。私はそれではなかった。期待し、それのために努力すれば色々なことを叶えられる人がいる。私はそれではなかった。生まれ持った見た目か性格か何かの良さで、存在するだけで愛される人がいる。私はそれではなかった。生きることに魅力と希望見出し、明日を楽しみにしている人がいる。私はそうではなかった。好きだと思った人に、同じくらい、あるいはそれ以上に好かれる人がいる。私はそれではなかった。私は違った。私はそうじゃなかった。そうなれなかった。

 ないものねだりなのはわかってる。ただ私が欲しかった、喉から手が出るほど欲しいと思ったものは、全部逃げていく。勉強なんかはもともと持っているから欲しいと思わなかっただけなのだろうけど。馬鹿だって自分の好きな人と好きなだけいられれば、それでいいじゃないかと思ってしまう。私はだからだめなんだよ。わかってはいるよ。でもやっぱり、好かれたかった。認めて欲しい。愛して欲しい。でも求めない。求めた人にはくれないから。神様なるものがいるなら、さっさと殺してくれればいいものを、何の意味もない人生に縛り付けて心だけ傷付けながら生かしてくるんだから、たまったもんじゃない。たまに希望をちらつかせて、飛びつこうとした瞬間届かないところへ持っていってしまう。そんな残酷なことがあるか。心を躍らせた瞬間のことを思い返すと、あまりに惨めで、もう早く留めを刺してくれと懇願したくなる。何にも期待できなくなるくらいまで叩きのめして、私を、ただのモノにしてしまってほしい。もう嫌だ。もう悲しい思いをしたくない。これ以上自分を嫌いたくない。

 ああ。疲れた。何もしたくない。何も欲しがりたくない。だから何もしない。こんなんでごめんね。幸せになれなくてごめんね。こんなはずじゃなかったのにね。なんでだろうね。どうしてだろうね。

 

生きるのつらいな

 愛されなかった自分を、赦すことができない。

 だから嫌なのだ。人を好きになるなんて。

 相手のことは、本当には嫌いになれないのに、自分のことばかり鬱陶しく、救いようなく惨めに思える。相手に向けた、向けようとした愛情を、自分に注ぐことはできない。なぜなら、この愛情に模した何かはきっと、これといった魅力のない私が誰かを引き留めようとする、最後の手段、張りぼての愛、に過ぎないのだから。

 手に入れたいと思ったものは、ある程度手に入れてきた。むしろ、手に入らないものなどほしいと思わないできた。うちにはお金がないから、私そんなやる気ないから、あっても多分そんなに使わないから、諦めると考える前にほしいと思わなくなった。

 勉強だけは、私が持っているといっていいもののような気がしてきた。事実、今回も裏切られなかった。でも、それが、学歴が、なんだというのだろう。自分が東大生だからなんて理由で自分のことを大事に思うことなんてできない。経済的に苦労しないことや人からすごいわね、と言われることなど何の意味もない。

 いや、これは手に入ったから言っていることで、受験に落ちた平行世界の自分は今頃、自分の満たされなさを不合格のせい、自分の能力の至らなさのせいにしているところだろう。つまらない。つまらない人間だ。

 そしてやはり満たされないこの世界の私は何を求めているか。愛がほしいなんて、子供のころの私が聞いたら鼻で笑ったろう。そのために泣いて叫んで苦しむ自分を軽蔑し、絶望するだろう。情けない大人になった。本当に恥ずかしい。

 どうしようもない。得られそうで得られなかったものほど心をえぐる、えぐり続けるものはない。いわゆるコンプというやつだ。人は顔や、学歴や、いろいろなものにコンプレックスを持って生きている。私は何か。愛情コンプ?いや、全部だ。愛されなかった理由となりうるすべて、すべてが恨めしい。

 前の男に振られてから、自分のどこが欠如しているのか、怖くて怖くてたまに自分でいるのが本当に苦しくなる。自分という皮をはぎ取って脱ぎ捨ててしまいたくなる。このぱっとしない見た目だろうか。顔にある痣や少し大きな歯が嫌で、小さな目と低い鼻が憎くて、全体が気持ち悪い。たまに、鏡を見て吐きそうになって、気持ち悪くなって泣きだしたりする。それともこの性格だろうか。大した実はないのにいやに高慢ちきででしゃばりで、空気を読めなくてちっとも面白くない。じめじめしてどろどろして、でも馬鹿みたいに格好つけて涼しい顔をしようとして、ださい。プライドばかり高くて、ちっとも可愛げがない。でもすぐに何かに依存して、抜け出すこともできなくて、気持ち悪い。この体格も悪いのだろうか。肩幅が広くて手足が大きくて、変にがっちりして、本当にかわいくない。こんなの女だと思えない。気持ち悪い。喋り方もどもって滑舌が悪くて声も可愛くなくて気持ち悪い。髪の毛はいつも寝ぐせでぼわっとして傷んでて不快。デブ。ブス。のくせにすぐ調子に乗る。根拠もなく威張る。

 こんなんで愛されるわけないじゃん。愛してほしいとか言ってるのも気持ち悪い。もう何を変えても無駄だよ。でも一人で生きていくこともできない。みんなひとりでもちゃんと生きてるのに、それすらできない。なんで生まれてきたんだ?なんで生まれてきちゃったんだ。

 人に好かれないたびに、それを事実としてつきつけられる。頑張って尽くしても近づいても、やっぱり私を愛せはしないんだ。私じゃやっぱりだめなんだ。やっぱりそうか、そうだよね、ごめん、ごめんね。私なんかが好きになってごめんね。気持ち悪いよね。ごめんね。もう近づかないから、嫌いにはならないで。いなくはならないで。

 嫌われるのが怖い、とかではない。自分が自分でいるのが気持ち悪くてしかたない。ああ、あの子みたいに可愛かったら、あの子みたいにいい子だったら、あの子みたいに明るかったら、きっと誰かに愛されたのだろう。自分に自信をもって生きられたのだろう。親はそれでも、好きだったかはわからないけど結婚して、世界一大事らしい子供をもって、幸せだと言っていた。誰のせいでもない。私が生まれた時から欠陥で出来損ないだったのだ。

 こういうときに、自分を慰める手段を知らない。どこまでも殻に閉じこもりたくなる。中身のように、外側までやさぐれて、どうでもよくなってしまいたい。視界をゆがませ、悲しみを濁らすために酒を飲む。何も考えないで済むように、人生の苦さを少しでも忘れられるように、煙草の苦みを噛み締める。それだけ。それだけ。

 

酒と恋人

 お久しぶりでございます。二週間ほど経ってしまったようです。

 とある事情でおうちに閉じ込められていました。ええ。みなさまには絶対にわからない秘密ですがね。

 この軟禁状態で私が何をさせられていたかといえば、そうですね、ひたすらにパソコン上で動画を見、音声を聞き、洗脳をされていたようです。

 その内容といえば、なんでしょうね、宇宙は何からできているのだという説明をされたり、αγγελοςとかいう意味の分からない文字で意味の分からない単語を読まされたり、週に5時間以上も東アジアの某大国の言語を聞かされ喋らされたり、様々です。大量のタスクも課され、一息つく暇もないくらいです。

 私はこのまま何になってしまうんでしょう。食べ物は軟禁されている自宅にいくらでもありますからぶくぶく太って、脳みそは知識を詰め込まれて、どこに出荷されるんでしょうかねぇ。怖いかぎりです。

 

 まあそんな軟禁と洗脳のストレスから、飲酒が増えました。週一くらいでしか飲まなかったのに、今週で三回、今日も友だちと夜オンラインで飲むので四回になります。しかも飲むとなったらそこそこ酔わないとつまらないので、翌朝に少々影響が出るくらいまで飲んでしまうんですね。うーんいけない。

 いや、お酒が好きなわけではないのです。断じて。これを言うとみんなに「どの口が」と言われてしまうのですが、アルコールという物質は生理的に嫌っています。消毒液のにおいで気持ち悪くなります。しかしながら、悲しい気持ちを埋める、ではなく誤魔化すのにはちょうどいい。一年前から一度だって消えることのない心の奥の寂しさを、魔法の水でぼやけさせるのです。この魔法、失敗すると悲しみがあふれて涙が止まらなくなるのですが。

 どんな時に失敗するか。一人で飲んだ時です。酔っぱらうと無性に喋りかけたくなるのです。ねえ、酔っちゃったよ。でも、その相手がいない。言いたい言葉は胸に押し込んで、いない事実を噛み締める。なんでいないの?どうして誰もいてくれないの?迷子になった幼子みたいにぽろぽろ泣いて泣いて泣き疲れて寝る。たまにやらかすやつです。

 まあこれも悪いばかりじゃない。からやっているのですがね。心の底に流れてる底なしの悲しみは、たまに外へ出してあげないと、あふれてしまいます。なんて理屈でわざと失敗させるわけですが、結局は底なし沼ですから、一回放出するとどばばあっと量を増して流れ出していく。とりとめがつかないくらい悲しくなって、結局は寝てしまうわけです。

 

 そろそろ恋人がほしい。この、誰もいない感は多分、そういう人でないと埋められないのだと思います。迷惑なことに。友達とわいわい飲んだり遊んだりするのと、根本的に役割が違うのでしょう。誰かがついているという安心感がほしい。あとは単に、愛されたい。今もまだ、去年からずっと、私は何がダメなんだろう。という問いを立て続けています。もうそろそろ、ここがだめだよ、じゃなくて、だめじゃないよ、という答えがほしい。答えになってくれる人がほしい。まあこうやって人に頼っているところがだめなのでしょうが。

 そんなわけで、私の方は時間のなさと心の不穏に依然悩まされておりますが、みなさまどうかご自愛ください。

 

 暇だ。

 時間の暇は心の暇になるからよくない。

 寂しさと無気力。

 友達に話しかける気力もない。元気に話す自信がない。

 寂しさを埋めるのは自分しかいない。

 何で埋めるの?思い出で埋めようそうしよう。

 私が思い出せること、楽しかった時のこと、愛されていた時のこと。

 幸せだった、とは思ってない。

 幸せだ、と思っていたけど、それは嘘なのだ。あれが幸せじゃいけない。そうでしょう?

 じゃあ、今のほうが幸せ?

 、、、たぶん、そういうわけでもない。健康にはなった。でも、あの時感じていた幸せは、感じない。 

 いつも何か足りない。物足りないとかじゃない。欠けている。

 何が足りない?何が欲しいの?

 愛されたい。

 あの時ですら、あの人にすら、本当は愛されなかった。

 思い起こす。別れてすぐ別の人を好きになったらしい、その話を聞いたとき。どうしようもない。誰も悪くない。何も言えない。誰にも言えない。受け入れなきゃ。受け入れなきゃ。

 ずっと愛してるって言ってたのにな。私何がだめだったのかな。あんなに頑張っても、だめなんだ。あんなに頑張っても、私じゃだめなんだ。私はだめなんだ。愛される資格がないんだ。

 ああなんか、だめだ。私はきっと何か、欠けてるんだ。見た目?声?体型?性格?器用さ?匂い?愛らしさ?かわいらしさ?明るさ?何?何?何?

 不良品だ。みんなちゃんとできているのに、私できない。生まれてくるべきじゃなかった。可愛くないから愛されないけど、一人で生きてくこともできない。嫌だ。嫌だ。認めてよ。好きって言ってよ。大事だって言ってよ。離れないでよ。いなくならないでよ。抱き締めてよ。あと、あと、あと、他に、他にどうしたら、どうしたら私は救われる?どうしたら愛されてるって安心できる?どうしたら、愛されなかったことに、泣かないで済むの?

 生きてる限りみんなひとりとか、そういうのいいから、やめてよ、ずっと繋がっていようよ、もう二人で一人になっちゃおうよ、そうしようよ。寂しいのもうやだ。もう嫌だよ。欲しがりたくないし、失いたくない。やだやだ、ああやだやだ。

 

 

 

生きる意味ってなんなのさ

 最近記事のテーマに事欠いてブログを書きあぐねていたのですが、いいのを思いつきました。

 「生きる意味」です。

 自慢にもなりませんし、もっと精通する人は他にたくさんいると思いますが、私はこれまである程度「生きる意味」について考えてきました。それなりの私見も持っています。

 なぜ20やそこらの若造が「生きる意味」マスターを名乗っているか(名乗っていません)。それははっきり言って、少なくとも自分には、生きる意味がないと考えてきたからです。感覚的に「知っていた」からではなく、「考える」ようになったことが重要なのだと勝手に思っています。

 

 人間は何についても意味を考えがちです。大学行って何の意味があんの?微積ができて何の意味があんの?嫌いな人と付き合って何の意味があんの?……

 この場合の「意味」とは、それの生む利益や目的、理由を指しているのでしょう。上記のようなほぼ反語的質問に敢えて答えるなら、大学に行くと就職の役に立つ、微積を勉強するのは経済学を深く理解するため、嫌いな人だからって絶交すると後で大変なことになるから……のような回答例が考えられます。

 さて。では、「あなたが生きてることに何の意味があんの?」という質問に、あなたは何て答えるでしょうか。10,9,8,7,2,1,ででん!タイムアップ!答えは出そろいましたか?この答えについては非常に興味があるので、みなさんの考えをぜひ教えてください。

 

 私が「生きる意味」を頻繁に考えるようになったのは、恐らく初めてはっきり「死にたい」と思った時でしょう。去年のことです。去年の五月以降のことです。

 私がこのブログでぼろぼろと綴ってきた通りです。私の場合は、ある特定の他人に依存し、自主的に生きることを放棄し、その他人がいなくなってみると自分の状況の虚しさ、理想との乖離、修正の不可能さに気づき、どうにも生きることが苦痛で仕方なくなってしまったのです。

 

 今、あの時苦しみもがいていた彼女を別の視点から見下ろしてみるなら、彼女は「意味」のある人生を生きているつもりだったのに、その意味を「失って」しまったことに気づいたのです。この場合の「意味」は利益でもあれば使命のようなものでもあるでしょうか。まだ見もしない私の未来は、最終的に「このために私は生まれてきたのだ」と思えるような何かに繋がっていると、それまで思ってきていたのです。

 彼と出会い付き合うまで、私にとってその使命は未知で、例えば「どこかの発展途上国へ行って貧しい子供たちに教育を授ける」とか、「何かしらの偉い人になって困ってる人を助けたり多くの人を幸せにする」とか、「文学か美術か何かの分野で何かを生み出し、人々に感動を与える」とか、立派で誇らしい何かへ向かって自分が歩んでいるのだと信じていたのです。

 彼と付き合い始めて、彼の要求を聞くうち、私の「生きる意味」は違う形に定まってきました。彼による制約の中で生きることを前提に、「結婚して子供を育て彼と子供を幸せにする」「彼らといることによる幸せを享受する」「その合間にできる仕事などで成功し家計の足しにしながら自分の名誉もなんとか保つ」ことを人生の目標としたのです。今、自分にこれでいいんだ、いいんだと言い聞かせていた時期を思い出し、苦しくて悔しくて涙が出てきます。でもそれでも、彼と一緒に幸せになることが何よりも私の「生きる意味」として、私が息をしていることの意味を問わせずに済ませていました。

 さて、ある日彼に振られました。私が彼のために妥協した学歴や縁を切った友達は戻ってきません。彼と付き合う以前に持っていた「生きる意味」も、付き合っている間もっていたそれも、何にもなくなってしまいました。ああ、もうやり直せない。本当なら果たせたはずの私の夢や役割に、もうどうにも手が届かない。そもそももう夢とかない。愛とか恋とか、そんなものももう生きる意味にはできそうにない。だめだ。生きる意味ない。死んだ方がいい。

 そんな風に考えては、歩道橋から身を乗り出してみたり、富士の樹海への生き方を検索してみたり、実行に移したこともありました。ホント情けないんですがね。

 

 しかし、本当に「生きる意味」なんてあるんですかね。概念として。人は本当にそんなものに根拠づけられている「から」生きているのでしょうか。

 私が持っていると思っていたような使命、人の役に立ったり社会に貢献したり他者から認められたり、そういう大いなる目的を持って全ての人間が生きているのだと仮定してみましょう。それでは、例えば生まれてから何かしらの障害を持って寝たきりだったり、本人が生きるので精一杯という人には「生きる意味」がないということになるのでしょうか。彼らには彼らの「生きる意味」を見つけ出してあげないと、彼らの生を肯定することはできないのでしょうか。

 あるいは、どんな人も死んだら悲しむ人がいるから死んではいけない、生きるべきである、という仮定法のような消去法のような、中途半端な論理が答えなのでしょうか。他者を悲しませないことが「生きる意味」なのでしょうか。

 

 私は、自分が死にたいと思った時、何度も家族の悲しむ姿を想像してやめました。自分自身彼らにもう会えないことが悲しくてやめました。一度実行に移したときは、それでも家族を悲しませる辛さより、自分が生きていることの辛さの方が大きいと判断したから、死のうとしました。家族が「死んだらだめだ、親不孝だ、私たちが一生苦しむ」と言っているから、ではありません。「私が」悲しいからです。

 畢竟人は自分の為にしか生きていません。人を助けること、社会に貢献すること、他者に認められることが自分にとって嬉しいから、それが自分の使命だと誇りに思えるから、それをしつつ生きているにすぎません。そんな大それた使命などでなくとも、庭を花で一杯にして綺麗にする、とか、大好きな友達に会う、とか、読書を楽しむ、とか、そういう小さいものから大きいものまである喜びから喜びへと飛び移りながら、なんとか「無意味」の川を渡ろうとしているのが人間ではないかと思うんです。

 何で「無意味」なのかといえば、人間の生も、葉に露がつくとかボールが下に落ちるとか音が鳴るとか、そういう「ただの」「意味のない」現象に過ぎないからです。この世に意味のあることなどありません。ただ色々な事柄が作用し合って偶然、何の目的もなく、ただ少し他の物事に作用したりしなかったりしながら、起こっているだけなのです。宇宙の誕生かもっと前から始まる無数の現象が他の現象とぶつかり合いながら、地球という星が偶然生まれ、何かが偶然反応して生命体が生まれ、それらが自然淘汰を経て(偶然生き残り)たまたま人間という一つの種へと進化し、その一つとして偶然生まれた私やあなたが偶然人間の持った知能というもので勝手にそれらの現象や自分の生を意味づけようとしている。ただそれだけなのです。

 かなりメタ的な話ですが、「意味」なんてものは所詮人間が偶然の産物に後付けしていった幻想に過ぎないのです。だから、そもそも私が生きている「意味」なんてない。いや、考えれば生み出せるけど、それは私が決めることで、普遍的な確固たる何かに支えられて生きているわけじゃない。普遍論争で言うなら唯名論なわけです。そんなよく知らんけど。

 強いて言うなら、私が生きている原因は「生まれてきたから」です。私が生まれてきたのは母と父が偶然会社で出会ったからで、母と父が生まれたのはそれぞれの親が出会ったからで……宇宙が生まれたからで、宇宙が生まれたのは……。数列みたいになりましたね。まあだから、問い詰めても詰め切れない。生きているのは、生まれてきて、まだ死んでいないから。それだけ。生きている原因は、生きていること自体と不可分なのだと思います。

 

 話が逸れました。とにかく、生きる意味などありません。他の何にも意味がないのと同様。雲と雲の摩擦で起こった雷に負けず劣らず、ただそれが起こっているだけ。

 ただ人間が雷と違うのは、意思があることです。ただ起こるだけのはずの現象を、自分の意思で少しだけ動かすことができます。朝ご飯を食べて生きながらえることもできれば、ここでピストルを心臓に打ち込み、自分という一生物をただの有機物の塊に変身させることもできます。

 だから、あらゆる意思のもとで、人間は生きています。パスタを食べる意思に基づいて食べ、金を稼ぐ意思に基づいて働き、家庭を持とうという意思のもと結婚し、意思にかかわらず必ず一度死にます。生きるための選択をしなければ、すぐに人は死にます。わざわざ生きるための選択をするには、それなりの「意味」というやつを、生きることに感じていたいのでしょう。

 結局、生きてしたいと思うことがあるから、あるいは生きることの意味を疑わせない何かを持っているから、そういうものを「生きる意味」として作り出しているから、生きている。もともと予定的に決まっている「生きる意味」に沿って生きるんじゃなくて、生きていく道のり途中途中で自分がいいなって思うものを見つけてこなして、その一つが人生の意味、価値になって、それを辿りつつ最終的に死ぬまで生きている。それだけなのでしょう。

 

 そのくらいに考えるようになって、私の場合は少し楽になりました。死ぬ選択肢だって、いつでもある。だって意思次第でほとんどの人はそれをできるから。生きるも死ぬも、他者には決められない、他者の意見を聞くかどうかも含めて自分の問題です。

 生きていて楽しいことから悲しいこと辛いことを引いて、プラスだったら生きていればいい。死んで嬉しいことから悲しいことを引いて、マイナスだったら生きていた方がいい。生きる義務とか責任とか糞食らえだ。私が死ぬことに文句を言う前に、私に生きたいと思わせなかったこの世界を悔やめ。くらいの気持ち。

 いや、私この記事を読んでくれている人にちっとも死んで欲しくないし、とにかく生きていて欲しいんですよ。でも生きるなら、生きなきゃ生きなきゃって義務感じゃなくて、生きたいから生きるって思って生きて欲しいなと思うんです。だから自分の気持ちを尊重して、したいことをして、自分を生きづらくする敵なんて無視して生きて欲しい。人を傷つけることは嫌だけど、あなたがそれを嫌だと思わないなら、私は何か言うこともできない。

 

 私は今のところ積極的にも消極的にも生きていようかなって気持ちが勝っていて、せっかく生きるならもっと楽しくなるようなこと、色々してみようかなって思っていて。その過程でいつか多くの人の役に立つようなことをできたら嬉しいし、社会がいい方向へ動いたら嬉しい。けど、そんなでかいことできなくても、自分が楽しいと思って生きていられればそれでいい。小さな家庭菜園を持って、そこでできた野菜を食べながら幸せだと思えていたら、日本中の人が面白いと思うような小説が書けなくたって、別にいい。

 だからこそ、行き当たりばったりでいい。どうなるかはわからないけど、どうにでもなるから、その場その場で一番幸せになる方法を考えればいい。運に任せてもいいし、自分で運命を変えてみようと行動するのもいい。全部意味がなくて、正解でも外れでもない、ただの出来事だ。

 とにかく偶然生まれてきちゃったんだからこの際、意味なんかに縛られず生きてみたらいんじゃない?

 

宵はさめない、さまさない

 どうもぉ。もうすぐ閉鎖されようとしている日本最大都市住み20歳未婚女性ですぅ。

 なんでこんな気持ち悪い口調かと言うとぉ、私今とっても悲しいんですぅ。

 まず一つに、スマホのアルバムを見返していて、戻らない日々が悲しくなったこと。もう一つは、今大人気コロちゃんのおかげで楽しみだった学校行事が全てなくなったこと。

 どうして、いっぱい泣いて死にそうになりながらなんとか受験を決めて、なんとか合格して、華の第二次大学生活が始まると思った矢先にこんなことになっちゃうのかなぁ。なんて、自分勝手に悲しんでいるわけです。

 

 悲しい気分の時はやっぱり、色々思い出すんです。悲しいは悲しいを呼び起こすわけで。写真の整理をしていたせいでもあります。いえ、元彼との写真とか、そういうものがあったわけではないんです。ただ数ヶ月前のなんてことない写真を見ると、ああこの頃まだあの人のことが好きだったんだっけな、とか、可愛くなって見返そうと考えた時期だなとか。

 あとは、そうですね、彼ではない人、私が一瞬好きになった人を撮った写真なんかも出てきて、とうとう消してしまいました。他の目的でライブラリをスクロールする最中、それを見るとやっぱり、ちょっと悲しいような気持ちになってしまうんです。その時の会話までおまけに思い出してしまって。

 "始まりしか知りたくない終わりなどいらない"という歌詞がaikoの「彼の落書き」という歌に出てくるのですが、本当にその通りで。人と会うのも電話も恋愛も、するのは好きだけど、終わることを考えると悲しくて寂しくて、自分からばいばい、とは言い出せないんです。それはもう、公園から意地でも帰りたがらない子供がぐずるように。

 

 だから私思うんですよ。嫌だけどしなくちゃいけないことを自分からできる人、大好きな人に、別れの場面であれデートの終わりであれ、自分からばいばいって言える人が、本当に大人な人なんだろうって。それは理性と感情の間の闘いとも捉えられるけど、きっと今や過去の自分でなくて未来の自分を信じられているってことで。

 本当に自分を大事にできているのは大人な人だと思うんです。私はどうやらそうじゃない。いつまでたっても、改札の前につくと、もうずっと会えないような気がして、お別れの言葉を言わなきゃなんて考えているふりをして時間稼ぎをするんです。

 やっぱり私は大人になりきれないままで、未来より今が大事なんだなんて喚いて、今日も二日酔いと薄着で夜を明かしたことを後悔する訳なのであります。

文章を書きたいのだけれど

 私はどうも、気分が落ち込んでいるとき出ないと文章を書けない。

 書けても、上っ面でへらへらしているような、薄っぺらいものになってしまう気がする。

 これは文章というものの本質なのかも知れない。

 

 暗い気分のとき、目や耳や心にブルーライトカットのフィルターをつけられたように、すべてのものが悲しく見え、聞こえ、感じられる。悲しい苦しい過去をわざわざ思い出して、自ら絶望に歩み寄る。あるいはマッチに火を灯すように楽しかった日々を思い出し、ふと我に返って今の寒さに震える。

 そもそも、自分の感情を掴みやすいのは嬉しいとき楽しいときより、悲しいとき苦しいときな気がする。私の場合は。だから「感情のこもった」文章というのは、暗い気分のときにしか書けない。

 

 そして悲しいとき、なぜ自分が悲しいのか、説明できるよう頭で考える。特に誰と決まっているわけではない誰かに、自分が悲しんでいることの正当性を主張したいのかも知れない。私は誰から見てもこんなに可哀想で、悲しい。

 それに対する情熱と言えばすさまじいものだ。人は幸せになる以上に不幸であること、もとい不幸に見えることを目標に生きているのではないかと思ってしまう。普通に生きている今を、少しでも評価して貰うためかもしれない。不幸でも頑張って生きてる私、すごいでしょ、よく頑張ってるでしょ。

 そう人を説得するために、表現力もぐんと向上する。気がする。私の場合、どうしようもなく、本当にもうなすすべなく悲しいとき、生きていることが嫌になったとき、遺書風の何かを書くようにしている。原稿用紙の束に、今の気持ちの暗さ痛さを文字にして綴る。自分への嘲笑のような形をとったり、文豪風の語り口になったり、もう頑張れない理由を弁解したり。

 暗い気持ちの時は大抵、気持ちを代弁する言葉、表現がするすると浮かんでくる。私はただそれを見えない誰かに手渡され、原稿用紙のマスを埋めていくだけだ。もはや私の言葉ではないのかも知れない。今年の東大国語第四問は似たようなことを説明していた。ものかきはそういう使命のような感覚で、ちょうどムハンマドが神の言葉を伝えたように、文章をただ記録しているだけなのかも知れない。

 そうして出来上がった文章、だいたい原稿用紙2~3枚分は、とても綺麗に見える。綺麗でなくとも、好ましい。心の声なのか、あるいは東大国語第四問の筆者が言うところの「超越者」の声なのか、偽りのない、でもちょっと愉快になるような愛おしくなるような、そういう言葉が並んでいる。死ぬほど苦しい気持ちで書いているはずなのに、読んでみるとそのかわいさに、悲しみや苦しみがどうでもよくなって眠たくなるのだ。

 

 一昔前の文豪と呼ばれるような人たちの作品が暗いと言われるのは、やはりその人たちが「暗い」からなのだろう。なくすものがない、絶望の中だからこそ、文章を書きたくなるし、書くしかなくなる。私は彼らの書く悲劇の中に、愛らしさや救いを感じて、自らの悲しさや虚しさを昇華させる。彼らの作品が評価されてきたのは、彼ら自身の感情を通して、人々の悲しみ痛む心を撫で慰めていたからなのかもしれない。

 今は気分のいい時期なので、面白くない文章になってしまった。感情のこもってない理性で書いた文章だ。反省。